bunq2004-09-24


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■9月11日&12日

喜望峰のテーブル湾に投錨したのは、翌1772年4月16日。ここは、1652年からスエズ運河開通の1869年まで、中継ならびに補給基地として、ヨーロッパ - アジア航路の要衝であった。オランダ東インド会社はここに政庁=総督府を設けて、植民地の経営と港の維持に当たっていた。
 ツユンベリーは副総督ヨアヒム・ファン・ブレッテンベルク男爵の快い援助を得て、3回、内陸部へ大がかりな博物学探検旅行を敢行した。
 第1回。1772年9月 -1773年1月。夏実施のカフラリア地方、南アフリカ希望岬植民地の東南部、インド洋に面した地域への旅。荒地で気候条件は苛烈。気温は日中40度にも達するが、陽が沈むと急に冷えこんで眠れない。この世の地獄だ。それとは対照的に、美麗な花を咲かせる珍奇な植物の宝庫で、植物学者のパラダイス。一行は、ツユンベリーのほかに、ガイド、植民地軍兵士、ボーイ、馬と牛車の世話をさせる「ホッテントット」と呼ばれていた先住民2名の計6名。植物や昆虫、鳥など採集。めざましい収穫はゴクラクチョウカ(極楽鳥花)の見事な新種の発見。疎林のなかで1頭の老成した雄の野牛(アフリカスイギュウ)にでくわし、2頭の馬は、つぎつぎに横腹を突かれ、即死。ツユンベリーは、とっさに近くの木によじ登り命びろいをした。まさに、九死に一生を得た思いであった。


(「平成蘭学事始 江戸・長崎の日蘭交流史話:片桐一男」より)

この日に同じ作者の他の本を読みいろいろ妄想しては嬉しくなったわけだが、くだんのヅーフよりも前に南アフリカを訪れたツユンベリーが、南アフリカを拠点に北上していた(スワヒリ圏に向かって足を進めていた)ということがわかった。とは言えどう考えてもスワヒリ圏にまでは行きついていないだろうし、そもそもこんなことぐらいで謎が解明されたというわけではないのだが、それでも、この「スワヒリ圏のことわざとヅーフが残していった言葉が類似していたのは単なる偶然なのだろうか?」という疑問に関することは、少しでも機会があれば追って行きたいなぁ。とあらためて思った。他にも『浅草紅団』における高級ハムサラダの謎とか、『雪の中の三人男』における肉うどんを再現したい!とか、どうも読書に時間を割くと(他の人にとっては)どうでもよいと思われることに引っかかってしまいやすく、調べたり試してみたりしたいことが山積みでたいへんだ。まー、人生は長いらしいのでどれものんびりいこう。死ぬまでには何か得るものも増えているだろう。

 ツユンベリーが来日に備えて準備した荷物には、ケンペルの著書が入っていた。それを日本における手引書として、所期の目的を達成しようとした。また、出発に先だって、彼はレースの飾りのついた美しい絹の衣服を新調した。それは、日本人たちが、博物学者がもっとも珍しい動物を調べる時以上の大きな興味と好奇心とをもって、来航するヨーロッパ人たちをながめる、と聞かされたからだったという。


(「平成蘭学事始 江戸・長崎の日蘭交流史話:片桐一男」より)

こういう人、好きだなぁと思った。自分をよく見せたいというのもあったのだろうけれどきっとそれだけではなく、骨の髄まで学究肌なツユンベリーならではの「好奇心や観察願望に対する共感」、そして、「だったらそれに応えようじゃないか」という開き直っての潔さもあったのだろうなぁ。と思ったので。すべては個人的な妄想でしかないけど、でも、ツユンベリーはきっとそういう人だったに違いない。と彼についての文を読むたびに思う。

 古い文献の記述は大ざっぱに過ぎて、わかりづらい。解読してあげた『阿蘭陀人日本渡海記全』のうち「料理之事」も参考にして、『紅毛雑話』にみえる二十一品に挑戦しようと、勘に頼り、試行錯誤がくりかえされた。
 関今朝美スーシェフが、んち1995年1月4日付の日本経済新聞に苦心談をのせている。
<中略>
 最難関は「ブロード(パン)」だった。「粉四に対し甘酒一」。これが文献に残された唯一の配合に関する記述だ。作り方も「麦粉と甘酒をよく混ぜこねる。銅器に入れ上下に火をかかげこれを焼く。パンの厚さ三分差し渡し三寸に切る」としかなかった。これだけを頼りに果たしてパンが焼けるものなのだろうか。
 パンフレット用写真撮影の関係で、シェフたちに与えられた時間の余裕は二週間しか残されていなかった。シェフたちの心に焦りがふくらんでも、生地は一向に発酵してふくらんでくれない。
 市販の甘酒にベーキングパウダーやイースト菌を入れて試された。しかし、文献のいうところとは程遠い。甘酒風のパンしかできない。ある日思い付いたのが、甘酒に少量の粉を入れ、湯せんで温めて発酵器に入れてみるということだった。
 その液体で柔らかめの生地を作り、発酵器に15時間置いてみたところ、少し発酵がみられた。しかし、持ち時間は写真撮影の前日に迫っていた。失敗すれば後がない。祈る気持ちでもう一度試みられた。
 徹夜で迎えた撮影当日。締め切りまで一分を迫る。生地を入れた蒸し器のふたを開けてみる。「あった!」ふんわりとした蒸しまんじゅうが、そこに湯気を立てていた。
 張り詰めた気持ち、空気が、ホッとなごんだ一瞬であった。


(「平成蘭学事始 江戸・長崎の日蘭交流史話:片桐一男」より)

再現料理の過程っておもしろいなぁ。と思った。てゆーか、こんな楽しい企画に加われた人たちをうらやましく思った。子どもの頃、学研のひみつシリーズに載っていた「忍者の常備食」に興味津々で、K君と一緒につくろうとしたんだよな。とか。そんな懐かしさも浮かんできたりして。ね。彼とは確か「キャンプ入門」といった感じの本を参考にして裏庭へ穴を掘って大きさ別の石などを敷き詰め、「野外トイレ」などもつくったりした。博打ごっこや探検ごっこももちろんだけど、彼との遊びはいつも本当におもしろかった。学年も違っていたし引っ越して以後はとんと会わなくなったが、いまも変わらず「周囲をワクワク台風に巻き込んでくれる人」でいてくれればよいなぁ。と思う。

bunq2004-08-30


家に荷物が届く。なんだろうと思って開けてみると、夫の大好物である笹団子ばかりがたくさんつまっている。とてもおいしそう。嬉しくなる。その一部を手に、誰かを捜して外に出る。自転車で夕暮れの道を走っている。何度か道に迷った末、草地の坂をどんどん下ってゆく。おなじみらしい場所。草地だったはずなのに、いつしか地下の洞窟のようなところに移動している。そう高くはない崖のような細い道。その崩れそうな道を自転車を押しつつ歩いていると、手を滑らせ自転車を落としてしまう。のぞきこむと浅瀬のような感じだ。自転車が沈んでいるのが見える。躊躇なく着衣のまま水の中へ。バラバラになった自転車の部品を集めて回る。水中ではあるが、息は普通にできる。ふと周りを見渡すと、水底に青いシートをしいてピクニックを楽しんでいる一団がいる。何人かが自転車の部品を一緒に探してくれる。感じのよい人々。だがペダルが一つだけ、どうしても見つからない。水の流れから推測して、奧の方の、やはり水中に当然のようにあるオーディオルーム?を目指して移動する。

bunq2004-08-24


輪島と言えば漆器なのに、そういったものは空港の土産屋でしか見なかったよなぁ。ともガイドブックをながめつつ思う。輪島漆芸美術館だなどという、かなりおもしろそうなスポットもあったのね。いつか行ってみたいものだわ。とか。

とゆーわけで、そもそも漆ってなんなのだろう?と思い、さっそく調べてみる。素晴らしいサイトがすぐに見つかった。世の中には漆を科学する会というものがあるということも知った。とまれこれらのサイトを見ていると、食器の類はもうなんでもかんでも漆もので!と思わずにはいられなくなるのが不思議だと思った。

…うるしの名は,「うるしる(潤汁)」,または「ぬるしる(塗汁)」からなったといわれています。あるいは,「うるわし」から「うるし」になったともいわれています。このうるし独特の滑らかで美しい塗肌は人びとに愛され,その色彩や装飾が人びとを魅了し,今日までに多くの器や工芸品が生み出されてきたのです。

「うるしとうるしのうつわ」より

うるわし説がロマンチックでよいな。と思った。ここの「うるしの歴史と意匠」のページなどをカチカチじっくり見ていると、まさに美術品としか思えなくて、ただただすげぇ!って感じだし。ね。

bunq2004-08-08


「せっかく上野公園にいるのだし、だったら大観展でも見に行くか」ということで、芸大に向かって走り始める。と、今日は日曜日なので奏楽堂が開いている。夫のリクエストに応じてしばらく見学。けっこうおもしろい。レトロなホールももちろんよいが、資料展示室にあった「建てかえ前に使用されていたらしい家具調洗面所」をとても気にいる。また、ホール脇の待合室に飾られていた「日本音楽史における重要人物たちの肖像写真」を見ているうち、伊沢修二という人の顔に目が釘付けになる。マイク水野にとても似ていたからだ。説明文を読むとずいぶん有名な人であるようなのだが、「マイク水野にとっての世界に3人、の一人は彼に違いない」と、経歴以外の部分でもかなりドキドキ。でも夫に言わせると「そこまでは似ていない」そうである。「ヒゲにだまされてはいけない」とも言っていた。私はヒゲにだまされやすいタチなのだろうか。自信を持って「NO!」とは強く言えないのが困ったところだ。

奏楽堂を出ると、またしても「もう大観展には入場できない時間だよ!」となっている。仕方ないので外にある巨大なクジラ模型だけでも見て帰ろうと、科学博物館側の道を通る。と、科学博物館だけは閉館時間が遅いらしく、まだ入館できると言う。恐竜だ!恐竜だ!と大喜びする夫に付き合い常設展へ。たまにびっくりして叫んでしまったが、思っていたよりも楽しめた。グロかったり怖かったりで近寄れないところも多かったが、とりあえず先日からの懸案事項だった「アザラシ(アザラシ科)」と「オットセイ(アシカ科)」の違いならいつでも聞いてくれ。と言えるようにはなったと思う。


*オットセイはアシカの一種。ただし、少し小さくて顔つきもほっそりして(鼻先がとがって)いる。

アザラシ:耳たぶがない(穴だけ)。泳ぐときは後ろ足で。地上ではずりずり、もしくはパタパタと這って移動。

アシカ:耳たぶがある。泳ぐときは前足で。地上でも前後のヒレで身体を支えて歩く。

あー、メニューの絵を見たいがためだけにビアホールへ行きたくなるだなんて!

bunq2004-08-05


未完成だしテキトーなところもあるけど特に深く考える必要があるとも思えないので、何か思いついたらそのたびに足したり引いたりしてみればいっかー。と思う。てゆーか他の人のものもとっても見てみたいのだけど、クラブ化したとして参加してくれる人なんているのだろうか。そもそもたとえばTなんて、チューリップと桜くらいしか知らないんだよね…。向日葵や朝顔、紫陽花くらいならわかると思うのだけど、そのあたりはどうなんだろ。あと、言うまでもないことかもだけど、薔薇とダリアはなんだか恐れ多い気がしてきたので外してみました。よ。

「あ」から「ん」に好きな花の名を咲かせてみる。


あ:アジサイ
い:イリス
う:ウメ
え:エニシダ
お:オシロイバナ
か:ガーベラ
き:キョウチクトウ
く:クチナシ
け:
こ:コブシ
さ:サクラ
し:ジンチョウゲ
す:ストック
せ:セントポーリア
そ:
た:タンポポ
ち:チューリップ
つ:ツツジ
て:テッセン
と:トルコキキョウ
な:ナノハナ
に:ニチニチソウ
ぬ:
ね:ネリネ
の:ノウゼンカズラ
は:ハナニラ
ひ:ビオラ
ふ:フジ
へ:ベゴニア
ほ:ポピー
ま:マーガレット
み:ミヤコワスレ
む:ムラサキハナナ
め:
も:モクレン
や:ヤグルマギク
ゆ:ユキヤナギ
よ:ヨウギク
ら:ラグラス
り:リコリス
る:ルドベキア
れ:レンゲ
ろ:ロウバイ
わ:ワスレナグサ
を:ヲミナエシ
ん:

…これ、どうせなら「あ」から「を」にすべきなのかなぁ。「ん」はどう考えてもないだろ。みたいな。

bunq2004-08-03

 伊藤家に伝存する資料のうちには、中津侯奥平昌高に対するコック・ブロムホフの賛詩、昌高がみずからオランダ語でしたためた賛詩や、ブロムホフ筆の農夫図扇面がある。フェイルケが得意の墨絵で絹地に描きあげた富嶽老松図にはヅーフが親しく賛を加えている。

 Bergen en Daalen Ontmoeten Elkander nooijt, maar Menschen wel, A 1814 in Simnoseki, Hend Doeff

 すなわち、
  山々と谷々は互に決して出会うことなけれども、人はよく会えり、
   千八百十四年 下関にて
    ヘンドリック・ヅーフ

ここにみえるベルフ Berg とダーレン Daalen は伊藤・佐甲二家の当主にもかけて*1読み込んでいると思えてならない。


(「江戸のオランダ人 カピタンの江戸参府:片桐一男」より)

スワヒリの有名なことわざに「山と山は出会わないが人と人は出会う(Milima haikutani lakini binadamu hukutana)」というのがあるのだが、このヘンドリック・ヅーフという人はそれを知っていたのだろうか。当時のカピタンや同行の医師等には南アフリカへの赴任の後に日本へ来た人もいるので、さっそくヅーフの略歴を調べてみた*2。が、残念なことにそういった経歴はないようだった。そもそも南アフリカはスワヒリ圏でもない。というわけで、単にオランダにも似たような俚諺があるのかもしれないが、もしそうではなくヅーフが完全にオリジナルでこれを思いつき、しかも世話になった人の名前を使って書いたのだとしたら、かなりおもしろい偶然の一致だと思った。また、もしこの時にヅーフの書いた言葉が南アフリカ経由でアフリカ大陸を北上し、最終的に東アフリカに届きいつのまにか俚諺として認知されていったのなら…。なんてことを妄想しはじめると、それはさらにたまらなくおもしろいことなのではないだろうかと思う。だって「世話になった日本人の名前をどうにか織り込んでメッセージでも書くか!」としたためたものが一人歩きした結果、東アフリカで一般的なことわざとして定着しただなんて。もう、そんなのワクワク度が高すぎ。てゆーか、伊藤さんだって草葉の陰からびっくりしていると思う。よ。

*1:伊藤氏のオランダ名はファン・デン・ベルフといい、佐甲氏のオランダ名はファン・ダーレンという。という記述が何ページか前にある。

*2:http://www.geocities.co.jp/Bookend/6712/dufu.html

bunq2004-07-21


とゆーわけで、お茶の席で「芸者さんと舞妓さんって違うの?」と質問されたときも、違うというのはわかっているのに「どこが違うのか」ということをしっかりすっきり話せなかった。しかも今日はそういったことに詳しい人が皆無だったので、全員の知識を合わせても「舞妓さんは若い人」「舞妓さんは京都にしかいない」「舞妓さんはぽっくりを履いている」といったような、極めて曖昧でいい加減な答えしか出てこなかった。ので、気になって帰ってから調べてみたら「舞妓とは、一人前の芸妓(芸者)になる前の15から20歳くらいまでの少女のこと」という定義であることがわかった。口々に説明した「テキトーな舞妓さん知識」にもそれほど問題はなかったようだが、やはり説明に「年齢(数字)」が入るとよい感じだな。と(直に関係のないことについても)感慨深く思った。以前、友人の弟さんと話していたとき「話の信憑性を高めたいときは、なんでもよいからどこかに数字を入れること。これがコツ」と言われたのだが、まさにそんなマジックを感じたというか。まー彼はそのまま日銀に就職したくらいなので、基本的に数字が好きなのだろうけど。

ともあれ、それ以外にもあれこれ花街について調べているうちとても興味深いページに行きあたったので、そのURLも記しておこうと思う。向島で芸者をしていたという人による、芸者というオシゴトというページだ。なお、同ページから続く「向島はこんなところでございました」にあった以下の文は、特におもしろいと思った。

舞妓と半玉の違い

 舞妓のほうが、年令的に少し下です。そもそも京都では、中学を卒業後くらいに、修行にでますが、半玉は18以上です。これには、大きな違いがあり、東京では、花柳界は、風俗営業となるのですが、京都では、府がかなり保護していて、風営法の取り締まりを受けないそうです。
 あと、舞妓は綺麗という感じですが、半玉はかわいい、というかおきゃんな感じです。それは、江戸のなごりのせいでしょうが。舞妓さんは、曳き着ですが、半玉は普通の振り袖ですし、帯も違います。あと、舞妓は絶対に髪を自分の髪で結いますが、半玉はおおくはかつらです。ただ、立場は一緒でどちらも芸者の卵です。

このページを熱心に読んでいたら、下町の芸者衆たちの話といえば、ということで『流れる』をとても読みたくなってきた。友人に貸したら返ってこなくなりそれはちょっと寂しいのだが、でも「参りました、と思った」というなんとも素敵な感想を聞かせてもらえたので、もうそれだけで胸がいっぱいになっていたりもする。というのもあって。「梨花って本当にカッコイイよね」と話せる人ができたというのが嬉しくてしょうがなかったし、タイトルからして『流れる』なのだから、それはそれで洒落ているのかもなぁ。とか。