bunq2003-10-25


ポカリと空いた時間を利用し、金魚とともに両国へ。そして、今のところ私だけが一人で熱をあげている斎藤緑雨の碑を見に行く。

碑にはこうあった。

 緑雨は、慶応三年(一八六七)伊勢国神戸に斎藤利光、のぶの長男として生まれました。本名賢【まさる】、のち緑町に因み緑雨と号しました。

 十一歳の時、両親と上京、やがて父が藤堂家の侍医となったため本所緑三丁目(現二丁目)の藤堂邸に住みました。小学校は弥勒寺に近い土屋学校や江東小学校(現両国小)他数校を転々とし、最後は明治法律学校明治大学の前身)を中退して終わっています。

 しかし、年少から才気あふれ、筆力は冴え、観察は鋭く人々を驚嘆させました。十八歳の時、其角堂永機に俳諧を学び、その紹介で仮名垣魯文を訪ね、彼が主筆の「今日新聞」の校正係となりました。やがて作家の途を進み、『油地獄』等の傑作や、辛辣な文壇批評で知られました。明治三十七年四月、奇行の多い人生をこの地に閉じました。戒名「春暁院緑雨醒客」は幸田露伴がつけました。

文学関連石碑は大好きだが、「奇行の多い人生をこの地に閉じました」と紹介されている人というのも珍しいのではないかと思った。そして、緑雨はこのことについて、どのように評するのだろうと考えた。

てゆーか、現在の緑雨の認知度や評価はどうも低すぎるような気がしてしょうがない。なんと言っても「彼の作品は一般的に文庫で出回っていない」というのは大問題だ。三人冗語仲間の鴎外や露伴の有名っぷりは言わずもがな、彼が最後まであれこれ世話を焼き続けていた一葉なんて、とうとうお札にまでなると言うのに!

『油地獄』なんてまんま『グミ・チョコレート・パイン』だったりするので、できれば是非、青少年向けの現国の教科書にでも採用して欲しいものだ。